戻る

文屋のやすひで、みかはのぞうになりて、あがた見にはえいでたたじやと、いひやれりける返事によめる

わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ
(雑歌下 938)

(私訳)
文屋康秀さんが、愛知県のあんまりえらくないお役人になって、「田舎見物に一緒に行かない?」とか冗談めかしてプロポーズして来たから読んだ歌

なんだかわびしくて心細くてたまんないし
つらくって浮草みたいな気分
水の流れが誘ってくれるから
一緒に流れて行ってしまおうかしら

(語句説明)
文屋のやすひで、
(文屋康秀)

みかはのぞうになりて、
(三河国(愛知県東部)の国庁の第三等官(県庁?で3番目にえらい人)になって)

あがた見には
(田舎見物に。(「あがた」=「県」=田舎=三河国=文屋康秀の新任地。「見」=見物。つまり、冗談として田舎見物。実際には一緒に三河に行って、康秀と一緒に暮らさないかという誘い))

えいでたたじやと、
(おいでになりませんか?=行きませんか?)

いひやれりける返事によめる
(言ってよこした返事に読んだ(歌))


わびぬれば
(世に暮らす上で心細い思いをしているので)

身をうき草の
(自分の身を憂く(つらく)思い、浮草のように。(「身を憂き」と「浮草」で「うき」を掛詞にしている))

ねをたえて
(「根が切れている」と「根を断ち切って」という二つの解釈あり)

さそふ水あらば
(浮草を誘う水のような、(少しでも頼りになる)あなたの誘いがあれば。(「さそふ水」=「誘う水」=康秀の誘い)

いなむとぞ思ふ
((どこへでも)行ってしまおうと思います)


これもらった文屋の康秀さん、どう思ったんでしょうか?
「わびぬれば」?「身をうき」?どうせ俺は左遷だよ。悪かったな!なんてオコったりしなかったんでしょうか?
それとも、同病相憐れむというか、小町先生も、康秀さんも、大変な時期だったりしたんでしょうか?
それとも、小町先生が「身のほど知らずにこんな誘いかけやがって、あたしはあんたなんか相手にしないんだよ」っていう怒りの歌なんでしょうか?
どうも、よくわかんない歌なんであります。

とはいえ、大岡信氏(詩人としてとても著名な人です)は、参考文献12で、「双方、充分に出来た大人同士の贈答の歌で、(中略)その底には当然、お互いのいたわり合いのような気持ちがあります。」と言っています。